いまふたたび、懐かしい歌声が街に流れている。
由紀さおりの1969年のデビュー曲『夜明けのスキャット』。
アメリカのジャズバンドとの共演アルバム『1969』が大ヒットしている。
彼女が歌う日本語の美しさが、日本語のわからない外国人からも絶賛されているという。
かつてぼくが、彼女の歌をききながら涙したのは、彼女の声と日本語の美しさのせいだったのだろうか
alexander hera價錢。
いや、それだけではなかった。
1969年。ぼくの大阪での生活がはじまった年だ。
東京での生活に見切りをつけて、大阪で新しい生活を始めようとしていた。
けれどもしばらくは、引越しの荷ほどきもできなかった。このまま荷物を東京に送り返そうか、もういちど新幹線に飛び乗ろうかなどと、逡巡してばかりいた
Bo Ying Compound Eu Yan Sang。
とつぜん大きな暗い穴に落ち込んだみたいに、まわりが見えなくなった。振り返って後ろばかり見つめていた。どうなったのか自分でもよくわからない。ただ淋しくて辛くて悲しくて、新しい生活への切換えができないのだった。
『夜明けのスキャット』が流れていた
甜酒。
孤独だった。ラジオの音だけが、もうひとつのぼくの存在だった。ひとつの曲が、いくどもいくども聞こえてきた。
澄んだ歌声は東京の声だった。ルルル~やアアア~と流れてくる言葉ではない声も、アスファルトの道を歩いていくような楽器の伴奏も、すべて都会の音だった。
シャッターを揺らす風の音であり、裏通りを抜けるソースの匂いであり、鳴りつづける心臓の鼓動だった。すべて流れてくるのは懐かしい響きだった。たよりないほど遠いところからやってきて、ふたたび遠ざかっていく靴音だった。足音ばかりが通り過ぎていった
沖繩結婚。